【銀 賞】・・・ぼくと野球と自転車と  中 村 青 史   大牟田市

 「お願いだから野球やらせて。」
 二年半前、ぼくは両親に頼んだ。父と母は困った顔をした。父はぼくが四歳の頃、重い病気にかかって半身が動かなくなった。先生の仕事もやめ、リハビリに励む毎日だった。
 母は、一つ上の姉とぼくと、生まれたばかりの妹を育てるために働いた。休みはなかった。ぼくが野球を始めると言うことは、そんな父と母に負担をかけるということだった。なぜなら野球はぼく一人ではできない。練習にも、試合にも、親が当番で付き添わないといけないからだ。ぼくの両親に、そんな時間も余裕もないことはわかっていた。でも、ぼくはどうしてもやりたくて、毎日のように、練習を見に行った。
 何日かたったある日、両親はぼくを部屋に呼んで言った。「セイジ、そんなにやりたいならやってごらん。お父さんもお母さんできるだけ協力するから。」そして、折りたたみ式の、車輪の小さな自転車を、ぼくに見せた。「送り迎えする時間はないから、練習でどんなに遅くなっも、自分で帰ってきなさい。これなら背の低いセイジでも、足がつくから安心だ。」と父と母は言った。そして自転車に蛍光ベルトを巻きながら「セイジを守ってね。」と母はつぶやいた。
 こうしてぼくは、いよいよ野球を始めた。守備はセカンド。打順は二番か七番だった。当番の時は母が都合をつけてきたくれた。どうしてもダメなときは、父が不自由な体で来てくれた。そんなときはぼくもとりわけ守備もがんばった。
 広い球場での試合では、ぼくの自転車がとても役に立った。小さいけども大人も乗れる自転車だったので監督やコーチが「セイジ、ちょっと貸してなー」と連絡用に使った。そんなとき、ぼくはぼくの自転車を、とっても誇らしく思った。
 でも、正直のところ、野球はつらいことの方が多かった。試合が負け続きだったり、エラーをしてコーチにどなられたり。雨の日もずぶぬれになりながら、自転車をこいで帰った。「やめたいな、家でゲームした方がましだな。」と何度も思った。そんなときは両親に野球をやりたいと頼んだこと、この自転車を買ってもらったことを思い出した。そうすると、意地でもやめられなかった。
 三月。六年になったぼくたちの最後の試合の相手は、市の優勝チームだった。「コールド負け」の文字が頭に浮かんだ。でもぼくたちはがむしゃらにがんばって、タイブレーク持ち込むことができた。結果は一対0で負けてしまったけど、「最高の試合だったぞ」と、監督たちがほめてくれた。ぼくたちのほおを力を出し切れた満足の涙が伝わった。
 ぼくは、この二年半、ぼくを支え続けてくれたチームの仲間と両親に感謝したい。そしてもう一人、ありがとうを言いたいヤツがいる。それは、自転車というぼくの大切な相棒だ。